最近一部界隈で話題になっていた話がある。
インターネットが登場した時、ネットによって人々は時間と空間の制約を超えて交流することが可能になり、体験と知見が共有され相互理解が進むと期待された。
しかしながら、現実には
(中略)
社会は分断されているという印象が生まれる。
分極化が起きるのは、ネットでは自分好みの情報ばかりを選ぶ一方で反対の意見には接しないという「選択的接触(selective exposure)」が起こりやすく、「エコーチェンバー」現象が加速するからであるとされる。
インターネットがあろうとなかろうと、興味が持てない話題だったら関心がわかないので、そんな話題があったことにすら気付かない。
反対に、興味を持ってる話題が世間で大きく取り上げられてるのを見た時は、みんなこの話題に興味があるんだなと思ってしまう。
"常識"も似たようなもので、誰もが知っていて当然と思われてることの多くは、選択肢が少ない中で選択権を与えられずに覚えさせられたから"常識"として機能してるが、決して中身や内容に共感してるわけではない。
Google Trendsで遊んでいると、素朴な疑問を持つことがある。
Google Trendsでキーワードの動向を確認できるようになったのは2004年からだが、その当時と今では、前提となるインターネット環境の違いはどの程度なのだろうかという疑問だ。
日常的に、検索する人の母数がそもそも違っているはずだ。
そういうデータを探してみた。
Google検索回数、年「2兆回」に、年間推移データも 2016/5/25
私が、Google Trendsを用いる場合は、特定のワードが期間を通じてどう変化するかを見たいからだが、その場合そもそも検索されてる母数が年によって大きく違うかもしれないということが見過ごされるかもしれないと思うことが時々あった。
そこで、話題になる期間が極めて短いワードを使って比較しようと考えた。
あれこれ試行錯誤したが、"亡くなった有名人"を用いてみた。
有名人の訃報に関しては次のサイトを参考にして、亡くなった時期での検索母数の違いが感じられるかを調べてみた。
結果、当初の目的と違う方向に進んでしまった。
各界の有名人を検索したが、私が思ってた知名度の印象とは違っていて、芸能人以外はあまりにも検索数が少ないので、グラフの山が大きく出る方を5名選んだ。
※閲覧注意【悲運・悲報】有名人の死。忘れてはいけない人…忘れたいくらい悲しい死を遂げた人…(国内編)
選んだ方は、
飯島愛さん :2008年12月死亡
川島なお美さん:2015年9月死亡
小林麻央さん :2017年6月死亡
大杉漣さん :2018年2月死亡
西城秀樹さん :2018年5月死亡
上記のGoogleの検索総数の推移から考えると飯島愛さんのグラフの山は母数に対して凄く大きいものに感じられる。
飯島愛さん以外は、皆最近亡くなられた方々で、検索数も多いが、それ以上に検索母数が増えていると考えられる。
しかし、驚くのは小林麻央さんのグラフの反応だ。
2016年の6月に乳がんを患ってることが発表され、ここで最初の話題になっている。
その後、闘病生活に入るが、9月に闘病ブログ「KOKORO」を開設し、大きな話題になる。
その後、継続的に闘病に関しての情報発信を行うことで検索され続けた。
関連のトピックもキーワードも1位はブログだった。
ブログ開設の理由を、病気になったが強く生きたい、と自身で語っていたが、後にテレビ局関係者から「治療費を稼ぐためだった」と暴露された。
小林麻央さんブログ「KOKORO」開設の裏事情!芸能人に収入が入る仕組みとは?
しかし、世間はそれに対し、ブログを見ることが応援になるならばと好意的に受け入れ上記のグラフの動きにつながった。
上記5名以外にも多くの有名人の訃報を比較したが、小林麻央さんのグラフがあると山を形成しないのだ。
先日、西城秀樹さんが亡くなった際にGoogle Trendsで確認すると200万+という検索数を記録していた、そんな西城秀樹さんも小さな山にしかならない。
小林麻央さんがいかに多いかを物語っている。
同様に、2008年という時期を考えると飯島愛さんも大きな反応を得たと言えるだろう。
この5名の中で、小林麻央さんだけ少し"違う"ということにお気付きだろうか?
実は、"死"についての検索だったのだが、小林麻央さんだけは"生き方"を示しているのだ。
これらの結果を見て思い出した言葉がある。
『女は実体だが、男は現象である』
免疫学者であり作家でもある多田富雄のことばだ。
実体は無意識の存在であり、現象は意識的なものだといういう意味らしい。
東大医学部を退官後(養老孟司先生の元同僚)に脳梗塞を患い、ことばを発することができなくなった多田富雄は著作「寡黙なる巨人」の中で、こう言っている。
「私には、麻痺が起こってからわかったことがあった。自分では気づいていなかったが、脳梗塞の発作のずっと前から、私には衰弱の兆候があったの だ。自分では健康だと信じていたが、本当はそうではなかった。安易な生活に慣れ、単に習慣的に過ごしていたに過ぎなかったのではないか。何よりも生きてい るという実感があっただろうか。元気だというだけで、生命そのものは衰弱していた。毎日の予定に忙殺され、そんなことは忘れていただけだ。発作はその延長 線上にあった」
そういう人々が、この現代には大勢いるに違いない。手遅れにならぬうちに、ぜひ気づいて欲しい。自分がこの世に生きている、生かされているのは、なぜか。まずなにより、自分は本当に生きているといえるのだろうか。
※太字、下線を入れたのは私。
この発言は、医者の言葉だというところに意味がある。
インターネットが社会を分断するという話題から書き始めたが、分断の根本はもっと深いところで起きているように感じる。
『女は実体、男は現象』は、今や人間論になっている。
女であるか、男であるかという違いではなく、生き方の違いだ。
実体がある生き方、現象としての生き方、という分断が根本にありそうだ。
生きてる実感は、目指す方向の反対側にあるかもしれない。