情報としてはありふれた、広告費の媒体別のシェアの割合の変化の推移を、動画にしてるツイートを見つけた、変化や推移が生き物みたいでおもしろい。
電通が毎年発表する「日本の広告費」に基づき、媒体別広告費の推移を動くグラフにしました。19年にネット広告がテレビ広告を上回ったのですが、20年はコロナ下でよりネット広告の存在感が高まりました #電通株主総会
— すずき📊動くグラフ📈 (@michsuzu) 2021年3月25日
日本の広告費、ネット・テレビなど媒体別の推移 1992-2020 https://t.co/7ZG3EyeLoK pic.twitter.com/qgeQQpBMYJ
登場した当初はまるで存在感がなかったインターネット広告は、テレビや新聞など他の媒体からシェアを奪う様子がハッキリ見えて新鮮だ。
その変化の動きを見ていてふと思いついたのが、この動きの背後で見えない別の動きが起きていたのではということ。
これまでなんとなく分かっているような、分かってないような気がしていたことが、きっとそうに違いないと思え始めた。
見えない動きというよりも、気付きにくい動きと呼んだ方が良いかもしれない。
おそらく、世間的にはSNS関連で一括りにされてしまってる背後で起きていたことと言えるのだろうが。
上記の動画を見ながら最初に感じたのは、そういえばある時期から雑誌や新聞の編集者や記者の中に過剰にクローズアップされる人が増えたなということだった。
本来は裏方な存在だと思っていたが、いつの頃からか編集者や記者の芸能レポーター化が進んでいた。
そのことと、広告費の変化に関連があるような気がしたのだ。
インターネットの伸びとともに、属性の変化が起きていたのだなと思えてくる。
従来は会社や会社内の部署や媒体種毎に紐付いていた関係性が緩み始めて、個人が前面に出るようになっていたのだなということで、正規社員であってもメンタリティ的にはフリーな人が増え始めていたのだなということだ。
名前が売れてる人ほど、会社や組織に所属していても、帰属意識は薄いか全くないだろうと思えてくる。
そういう人たちの帰属意識は、あるとすれば会社や組織ではなく、世間や社会だろう。
優秀な営業パーソンのプライオリティは、会社ではなくお客であるように。
その一方で、大半の名もない人々は所属や帰属に強い執着心を持つという二極化も強くなってるはずと改めて思え始めた。
つまり、昔だったら組織や看板の力だと思えていたことの一部は、確実に個の力にシフトしてるはずだし、この傾向は止まらないと思える。
同じ理屈で、組織や看板に力を与えていた数字や人数というのが錯覚になっているのだ、現代は。
選挙や政治の世界で耳や目に馴染んだ組織票という存在だって、弱体化しながら変質してるはず。
圧力団体なんていう不気味な隠然とした力を持つような存在だって、今や『幽霊の正体みたり…』的な存在なのかもしれない。
そう思いながら気付いたのは、最近日本会議や神社本庁ってどんどん権威が失墜してるなということ。
ネット上を検索すると、日本会議や神社本庁という存在は機関紙や封書やFAXでその影響力を保ってきたが、ネットの時代に対応することができずに分裂衰退してるという論調の記事があった。
この衰退の流れも、冒頭で紹介した媒体別の広告費の変化の推移とリンクしてるはず。
旧式の一斉送信という一方通行の情報発信で、人の心がコントロールできる時代は終わりつつあるのだ。
もう、通り一遍のキーワードに大勢が集まることはないのだ。
大勢の人が集っていても、その思いはまるでバラバラで、集合体としての力は発揮できない。
つまり、見知らぬ人から見ると組織や集合体のように見えても、実態はバラバラな個なのだ。
これは、関係性や結びつきが薄くて緩いものにしかならないということで、仕事仲間や遊び友達だけでなく、家族関係、夫婦関係、親子関係にだって及んでいるだろう。
その人間関係の関係性の薄さの隙間に入り込んでいるのがペット市場のように感じるが、これだって薄いのは世間のニュースを見てれば感じられる。
1980年代、日本の産業界のキーワードが軽薄短小になり始めた。
それを象徴していたのがソニーのウォークマンやシャープの電卓。
思えば、日本が世界をリードした軽薄短小文化は今も続いているのだが、軒下貸して母屋を乗っ取られてしまった感じだ。
そんな軽薄短小化は、今や人間関係に及んでいるのだが、軽薄短小化してるというよりも、自由化多様化してると理解されている。
思えば、重厚長大なものを軽薄短小化させることがテクノロジーを発達させたが、現代はそのベクトルに代わるものはまだ無いように感じられる。
現代人は、仕事でもプライベートでも、コスト意識も高いので、なお一層の軽薄短小化が進むような気がする。