違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

現場や環境をねじらせるもの

『現場』はウソを吐かない。

 

現場では常に正しいことが起きる。

 

それがトラブルや不都合であっても起きるべくして起きている。

 

不可解なことやあり得ないことが起きると考えるのは、現場に立たない人だ。

 

研究者や科学者でフィールドワークをしない人がいれば、あるいはフィールドワークが嫌いだと言う人は偽者だ。

 

逆に言うと、現場に精通してる人や、現場を知り尽くしてる人は、机上の勉強や研究をしたことがなくても立派な研究者や科学者と同じ領域に達している。

 

現場を軽視する人は、得体の知れないことにただただ不安を感じ、得体が知れてることには恐怖するだけになる。

 

それらは起きてはいけないことだと、起きたら困ることだと、脳にインプットしてるから。

 

しかし、常に現場を意識する人ならば、現場で起きることにはすべて理由があり、不可解なことやあり得ないことなどは何ひとつ起きないということを理解している、たとえその理由が分からないとしても。

 

現場に立ち(現場が机の上という場合も含む)、今の自分には理解できてないことを解き明かそうとすることは、ダラダラ遊ぶよりも遥かに楽しい、悩ましい時間は多いが。

 

この楽しいはずの作業は、日本の現代社会では非効率的だと扱われがちだ。

 

それは、現場の責任者やさらにその上の立場の人が現場を軽視するという歴史を繰り返したからで、その歴史は歴史というにはあまりにも日が浅く、日本だとせいぜい最近30〜40年の間に起きたことだ。

 

しかし、この30〜40年で現場に立つ人の人種は大きく入れ替わったはずで、それによって起きている変化が今の日本という現場を作っているのだろう。

 

本来の現場とはあくまでも人間とは関係ない環境そのものだが、人間を中心に現場を捉えて位置づけることが当たり前になってしまった。

 

そうなればなるほど、現場が疲弊し、現場が悲鳴を上げるということが増えている。

 

 

リアルタイムで変化を経験してる人ほど違和感が拭えないだろうことが現場の変化で、違和感がある現場ほど本来環境に含めるべきではない人間を環境の中心に位置させるようになった。

 

その結果、現場では不可解であり得ないことが起こり、それは解決困難だということが少なくなった。

 

現場のねじれとでも呼べば良いだろうか、あるいは環境がねじれているとでも呼べば良いのだろうか?

 

いずれにしてもねじれの原因は、現場や環境にあるのではなく人間にあるのだ。

 

 

2023年は、そんなねじれに巻き込まれないように生きたい。