哲学と呼ぶからややこしくなる。
思想などと呼び替えると政治の臭いが漂い出す。
しかし、主義主張と呼び替えたり、美学やポリシーと呼び替えると日常用語になるし、自分なりのものを持ってるのが当然だろうと思えてくる。
思想や主義主張や美学やポリシーも含めて哲学と総称すると勘違いの元になりそうなことが見えてくる。
哲学と呼ぶことでいかに時代が変わろうとも不変の存在であると勝手に思い込むという点だ。
つまり、自分を取り巻く環境や状況が変化するたびに変わる価値観のようなものは哲学にはなり得ないと思い込むことだ。
しかし、哲学を別の表現に置き換えると、状況や環境の変化に応じて変化するのは当然以外の何物でもないと思えてくる。
つまり、哲学にもプランAやプランBプランC…があり得るのだ。
アニメのルパン三世を見ていてルパン三世に不快感を感じる人は少ないだろう、泥棒であり詐欺師なのに。
それはなぜか、もちろんアニメだからなのだが、登場人物のキャラが確立し、その背景にある哲学まで見えるからだ。
ことわざにも似たような思想を感じるものがある。
一寸の虫にも五分(ゴブ)の魂
盗人にも三分(サンブ)の理
最近の犯罪には犯人にまったく同情を感じられない種類の事件が多い。
理由があったとしてもそんな理由は認めたくないという気持ちの方が強いことが増えている。
きっと哲学が時代背景や社会背景の変化によって変化することを余儀なくされてるのだ。
哲学Aしか知らなかった人が、哲学Aがいつの間にか哲学Bにシフトし始めたことを受け容れきれないと時代に閉塞感しか感じられなくなるかもしれない。
これから比較的短期間のうちに哲学がABC…と変化しても不思議じゃなくなるのかもしれない。
そのために心の準備をし、そういう目線で世の中を見る訓練が必要だろう。