一次情報を知ることが大事と言われる。
一次情報とは、加工されてないデータであり情報。
大事な一次情報として存在しうるのはセンサーが記録したようなものや愚直な観察記録のようなもので、それ自体には意味はない。
一次情報に意味や価値を与えるのは、そこに解釈が与えられた瞬間からで、解釈が与えられた時点から一次情報ではなくなる。
解釈とは加工に他ならないからだ。
加工が生み出す解釈が数学的あるいは物理学的に理にかなっている場合にはそれは一次情報などとは呼ばれず法則として扱われる、解釈によって揺らぐ存在ではないから。
法則には人間の都合などが入り込む余地はなく、解釈は常に一つしか存在しない。
一方、一次情報は、そんなものがあるとして、その次の段階で誰しもが求めるのは、『それってどういうこと?』に対する解釈だ。
そして、解釈が与えられた瞬間から一次情報ではなくなる、解釈にはあらゆる不純な人間の意思が入り込むからだ。
あえて不純と表現したのは、純なるものとは数学的物理学的に真なものだけという意味からだ。
今回の参院選で改めて感じたのは、従来『保守と革新』という対比で語られていた価値観の争いはもはやピントハズレも良いとこだという思いだ。
こういう変化に気付いてる人は少なくないはず。
では、どのような対比構造があったのか、そのことを生成AIに聞いたりネットやSNSやYoutubeを検索する人も多いかもしれないが、そこで接する情報や解釈はすべてもはや一次情報ではない。
複数の一次情報ではないものの中から、自分が惹かれる解釈情報に感化されるだけだ。
しかし、意識の中では自分が惹かれた解釈情報こそが真なる一次情報だと思い込んでしまうのだ。
別の表現だと洗脳が該当しそうだ。
洗脳を促進する要素としては、自分にとって都合が良い主義主張があるだろうし、場合によっては勝手に錯覚したりという場合も少なくないはず。
本当に素晴らしい解釈情報があるとしたら、誰にも伝えないか、伝える相手を厳選するはず。
現代に出回ってる情報のほとんどは知ることは構わないが知ったからといって何の得にもならないものばかりだったり、知った時には旬を過ぎてるようなものばかり、そう思うくらいがちょうど良いはず。
一次情報には価値がないというつもりで書き始めたが、結局一次情報の解釈になる二次情報にも大した価値はないという結論になりそうだ。
しかし、人間は解釈を求め続ける。