才能は、持ってるだけでは、花が開かないかもしれない。
そんな時、ほんのチョットのことが花を開かせるきっかけになることがある。
さくらももこが高校生の頃、小論文模試を受けたら採点者から「現代の清少納言」と絶賛され、それまでさほど褒められることのなかった彼女が自分に自信を持つ、というエピソードがある。彼女の才能に最初に気づいたその採点員こそが彼女の生みの親で、その才能に気づくことこそが教養だよなぁ。
— silver_romantic (@silver_romantic) August 27, 2018
Google Trendsで"ほめる"、"ほめられる"を検索可能な2004年以降で見ると、
グラフの動きで気になるのは、2009年の6月から7月頃にどちらのワードも大きく反応してるが、調べてみると、教育やビジネスの場で、"ほめて育てる"、"ほめ方が大事"という話題や本が増えていたことがわかった。
そして、このどちらのワードも地域性が感じられるという特徴がある。
"ほめられる"に至っては、反応してるのは東京だけだ。
小学校のとき
— 復活!島田紳助名言bot (@sinsuke_meigen) August 23, 2018
学校の先生に『黙れ!』って、
2万回ぐらい言われました。
今は『ようしゃべる』
って褒められます。
日本のミレニアル世代(1989~95年生まれ)の若者たちは「チルってる」ということですが、チルとは「落ち着く」「まったり」というニュアンスの「chill out」が語源ですよね。そうなった背景を、まず教えてください。
5年くらい前までは、私が難題を振っても、耐え忍ぶか、がんばるという子たちがかなりいた。でも、今は同じことをすると辞めてしまうんです。言葉は悪いですが、今は若者に対して相当媚びるようになった自分がいます。企業でも同じことが起こっているのではないかと思います。
※太字にしたのはわたし
"ほめる"と"媚びる"が似てる気がするので、"媚びる"も加えてGoogle Trendsで比較すると、
この2〜3年で、"ほめる"と"媚びる"は、同質化のニュアンスを醸し出してるような気がしてくる。上記の記事には箱根駅伝で有名になった青学陸上部の原監督の話が出てくるが、テレビで見る原監督は若い選手たちと上手にコミュニケーションを取っている姿から、選手をほめて伸ばすスタイルだと勝手に思ってしまいがちだが。
その点、今目指すべきは、青山学院大学陸上部の原晋監督ですね。
そこで原監督が考えたのは、「採用基準」の見直しだそうです。過去の実績をあえて見ず、話をした時の地頭の良さがあるか、自分で考える力があるか、自分で説明する力があるか──そういう基礎能力を基準にしたのです。
今週金曜は節分…ということで明日は「鬼」の特集です!
— NHK「クローズアップ現代+」公式 (@nhk_kurogen) January 30, 2017
最近、[怖~い鬼]が減っていませんか?
叱るよりも褒めることが持てはやされる現代。人材育成はどうあるべき…?
箱根駅伝3連覇・青学原監督に学ぶ実践術も!
あす夜10時です。https://t.co/Ic4cz4FTQz
この番組の中で、原監督はこう言っている。
決断をしたら続くよ。
決断をしないだけ。
原監督には、そうした今どきの若者たちを強く育て上げるための、1つの揺るぎない流儀があります。
“任せれば、人は『鬼』になる”
しかし、ただ任せるだけで選手が鬼になるわけではありません。
箱根3連覇を成し遂げた、青学独自の鬼の流儀があります。
“一人ひとりの目標を、チーム全員で共有する”
ほめられると伸びると言われるが、それは自己肯定感が得られ、自分の行動に自信が持てるからで、その延長線上に決断が得られるのかもしれない。
しかし、"ほめる"という行為が"媚びる"に近くなると、それを鵜呑みにするのもチョットという気がしてくる。
先日、人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている 、という本を話題にしたことがあるが、この中で"錯覚資産"ということばが定義されている。
人間に付きまとう評価の多くは、小さな錯覚に基づいているが、それは無意識で無自覚だということだ。
日常の中で、何気なく使ってることばで、思わぬ得をしていたり、反対に大損をしているということもあるだろう、そんな話が下記でとてもおもしろい。
だから、お前は、人がなんか言ったらまず一言目に「そうですね」って言え。
反対意見があるときは、「そうですね」って言った後に一呼吸入れろ。
それができないと、お前、ただでさえアクが強いんだから、あの野郎って嫌われて終わっちまうぞ。
私は、自分が言われてるかと思うほど、当てはまることだらけだった。
「そうですね」は、できれば上手に言えたほうが良いに決まっている。
問題は、意見が違ってる時だ。
これは、お世辞や、おべんちゃら、と言われる類とは少し違い、その後に、どんなことばを繋げていくかも問われるが、後の言葉がどんなに素晴らしくても、始まりが「そうですね」ではなければ、評価はないかもしれない。
逆に、「そうですね」から始まれば、大したこと言ってないのに意外な高評価が得られたりするかもしれない。
簡単なのにできない、できそうなのにできない、あるいは深く考えずに取っているリアクションなど、小さな積み重ねで大きな差が付いているのかもしれない。
「そうですね」は、口癖にしたほうが良いかもしれない!