違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ヤバい話!

たまたま読んでいる本の中におもしろい記述(実際には会話)があったのでそのまま丸写し(原文のままですが、改行だけはしてます)。

 

読んだのは2016年に出されたこの本。

 

 

 

〜〜ここから引用〜〜

 

内田

最近思うんだけど、母語と外国語の最大の違いっていうのは、母語についてはそれまでに存在しなかった語義を付け加える権利が母語話者にはあるということだと思うんだ。

これ、前にも言ったことがあるけど、何年か前に、野沢温泉に行って露天風呂に入り、“あ〜、気持ちいいなあ”と思ったときに…

 

平川

それ“ヤバい”話ね(笑)

 

内田

そうそう(笑)。

学生が二人、僕のあとにジャボンって露天風呂に入って来て、“ヤベエー”って叫んだのね。

でも、その瞬間に、僕はこの学生が使った“ヤバい”という形容詞が“大変快適である”という意味であるということを理解できた。

もともと“ヤバい”には“大変快適”なんていう辞書的意味は存在しないわけだけれど、それが今ここで全く新しい語義で使われたということを僕は瞬時に理解できた。

 

“君たちそれは誤用だよ、そんな意味はないよ。そういうふうに使うことを僕は認めないよ”、じゃなくて、“なるほど”と思った。

 

そして、そのときに、なるほど、既存の語の新しい意味をつくることができる、聴けばただちに理解できるということが母語話者固有の出来事なのかと実感したわけ。

 

あと、“真逆”っていう言葉もそう。

初めて“まぎゃく”って音を聴いたときにもすぐに“真逆”という二字の漢字が頭に浮かんだ。

それが“正反対”という意味だということもわかった。

その場で初めて聞いた言葉で、日本語の語彙に存在しない言葉でも、あるいは既存の語のまったく新しい語義でも、母語を共有してる人間にはわかるんだよ。

 

平川

そうだね。

 

内田

なるほど、これが母語というものを持つ人間に許された最大の生産性、創造性なんだと思う。

言葉をつくり出すことができるだけじゃなくて、それがただちに話者全体に集団的に共有される。

それが母語使用ということのほんとうの意味なんじゃないかと、そのとき思った。

だからいま、日本語を使わないで英語を使うえ、って政府も財界もうるさく言ってるでしょ。

すでに小学校から教え始めているし。

でもさ、学校で後天的に学んだ外国語ってまさに一物一価、一語一義なんだよ。

 

平川

でも英語って複層的なんだよ。

『Back  to  the Future』で過去に行った主人公のマーティが、辛いっていう意味で“heavy”って言ったら、その時代の人が何が重いんだよってね。

 

名越

わかります。

“I'll be back”(ターミネーターの台詞)とかも、結構、いろんな意味で使うんですよね、いまは。

 

内田

英語話者なら“heavy”に新しい意味を加えることができる。

言えばネイティブにはすぐわかるから。

でも、僕たち日本人が英語に新しい意味を付け加えることは許されないでしょ。

KamikazeとかSushiとかKaroshiとかはもう英語のボキャブラリーに登録されてるけれど、これは日本人が登録したわけじゃない。

英語話者たちが、これは英語の他の語をいくら多義的に言い回しても示せない語義だと判断したから、初めて英語の語彙に加わった。

僕たちは英語の語彙を増やすことはできないんだよ。

 

I  went という不規則変化はややこしいから、I goed でいいじゃないかと僕がいくら言い張っても、それが英語の語彙に登録されることはありえない。

でも、ネイティブがwantをwannaと言い換えたら、“お、それかっこいいじゃん”でたちまち英語になる。

新語を創ることができて、それがたちまち共有されるというダイナミックな構造が母語を語るということのほんとうの意味だと思うんだ。

だから、母語を豊かにする努力を怠って、後天的に学んだ外国語を習熟することに知的資源を投じるというのは、実は国民的規模で創造性を失ってゆくことだと僕は思うんだよね。

 

 

誰も同意してくれないけれど。

 

 

〜〜引用ここまで〜〜

 

 

 

同意しました。

 

読んでいてスッキリ爽やかな気持ちになりました。

 

知ってるけどバラバラだったことが一つにつながる感じがして新鮮だったので紹介しました。

 

 

 

さて、この母語に新しい意味を付け加えることが許されるに似たことに伝統的なマナーがあるような気がする。

 

冠婚葬祭や伝統行事だけでなく挨拶の仕方や、プレゼントを贈ることをお中元やお歳暮と呼んだ途端にマナーの縛りが付いて回るようになる。

 

そして、その伝統的なマナーを身につけることが人間としての品格が、身につけてない人よりも上位に位置するという理解が社会には染み付いているように感じられる。

 

マナーの由来を遡ると、身分制度や階級制度が関係してるからだ。

 

 

前半の、言葉に新しい意味や解釈が加わることにはなんの躊躇もなく賛成できたわたしだが、ズレたマナーに対しては不快感を感じることがある。

 

その不快感は、温泉で「ヤベエ」と言った学生に、その使い方は間違ってると感じるのと同じような気がする。

 

たまたま今日こんな話を目にした。

 

ダルビッシュへの箸の持ち方論議に茂木氏は擁護

ダルビッシュの箸の持ち方に対する批判の声に「ダルビッシュさんのような卓越した身体能力を持つアスリートに、お前の箸の持ち方はダメだなどと言う蛮勇というか勘違いはすごいなと思う。(笑)」とチクリと刺し、「日本においては『マナー』や『世間』は誰でも最強のラスボスになるマジックアイテムである。そろそろマナー依存症から目覚めればいいのに」と結んだ。

 

 

最近、世間では怒りのコントロールが下手な人が増えている(わたしも含まれる)。

 

怒りにも種類があるが、『こうあるべきだ』『こうあってほしい』が満たされないことで生じる怒りの根底にはお手本や理想としての伝統やマナーが見えてくる。

 

そこには伝統やマナーを絶対不変のものとして縛られてる姿が見えてくる。

 

しかし、伝統やマナーにも新しい意味や解釈が加えられることも自然なことだと許容できれば、怒りの対象にはならなくなる。

 

ほんのちょっとの解釈の違いが、とてつもなく大きな許容範囲の差になるのだ。

 

怒りをコントロールすることをアンガーマネージメントだと捉えるとハードルが高くなるが、言葉に新しい意味が加えられるようなものだと思えれば、それだけでコントロールできるような気がしてくる。

 

 

マナーに こだわるなんて ヤベエぞ

 

このヤバいの意味はあなた次第だ!