違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『検索』で分かる能動性と積極性!

調べたいことや知りたいことがある時に活用するのが検索。

 

PCやスマホやタブレットとネット環境さえあれば誰でも活用できることと他人に知られることなくオールジャンルを対象にできるので、勉強は嫌いだけど検索は大好きという人は多く、思わぬ人が思わぬジャンルに関してビックリするほど博学だったりすることは珍しくなくなった。

 

さて、コロナによる緊急事態宣言がすべて解除されたが、仕方なく始めた自粛生活にすっかり馴染んでしまうと、生活習慣が知らぬ間に変化した人がほとんどかもしれない。

 

根拠も具体的なデータも持ち合わせないただの勘なのだが、自粛生活が当たり前になった頃から検索のされ方が変化したように感じるようになってきた。

 

検索のされ方の変化というよりも、検索自体が減少してるのではないだろうか感じるようになっていた。

 

もしそうであるならば、自粛期間中に起きていた変化としてビッグデータを活用して変化を示すサイトなどが出てもおかしくないなと待っている状態が現在。

 

 

そんな気持ちの最近、自粛生活を強いられてからの変化として、それまで好きだと思っていたことや、これをやってれば楽しい、と感じていたことに興味や関心がなくなってる人が増えているという話を聞いた。

 

 

 

 

『これは困ったことになったぞ』と始まった自粛生活が実は心地良いと感じてる人が、どうやら自粛前には楽しさを感じていたことに楽しさを感じなくなってるようなのだ。

 

『やるな』と言われるとやりたくなるという心理がある。

 

忙しい時ほど暇つぶしをしたくなる。

 

 

それが、

 

『やりたければご自由にどうぞ』という環境が与えられると、『別にやらなくてもいいや、いつでもできるし』と思ってしまうのだ。

 

やらなければいけない事をさて置いてする余計な事は、蜜の味がする現実逃避だからハマってしまうのかもしれない。

 

自粛生活で、やらなければいけない事をやるわけでもなく、だからと言って現実逃避にも魅力を感じない人は、何もしないを楽しもうとするのかもしれない。

 

何もしないというのは結構苦行だから、受け身でできることしかしないようになるのかもしれない。

 

例えば、テレビを点けっ放しにしたり、ネットで動画を流しっ放しにしたり。

 

受け身で行動することに慣れると、能動性が要求される事は面倒くさいことに思えるはず。

 

検索するという行為は、関心のあるテーマを見つけ、その分野に相応しいキーワードを設定しないと成立しないので、かなり能動的な行動になる。

 

 

5年前くらいだと、どのように検索するかというテーマが与えられると、答えはどの検索エンジンを使うかが議論の中心だったような気がする。

 

つまり、検索はブラウザで行うものだったが、徐々にアプリやSNS上で行う場合も増え、検索というビッグデータも分散化していたのだろうなと思える。

 

 

 

そんな傾向に加えて自粛で検索自体が減ってるとすれば、日常的に検索を多用してる人だと雰囲気の変化が感じられるのではないだろうか?

 

 

ブラウザで行う検索にはかなりの能動性や積極性が必要だが、アプリやSNS上の検索は受け身の要素が少し増し、徐々に立場が逆転に向かっているのかもしれない。

 

受け身であることを別の表現で示すと、タイムラインを流れる情報に身を委ねる、とでもなるのだろうか。

 

 

スポーツを含めたファンが盛り上げるエンタメ業界や、旅行や外出が支えていた業界は、多くの人々の能動性や積極性に支えられていたと痛感する最近だが、そのキーワードはリアルタイムとなり、リアルタイムへの拘りがファンのモチベーションだったはず。

 

一見違いが分かりづらいタイムラインとリアルタイムだが、体験や共有に重きをおく場合のリアルタイムには時間に幅がある。

 

イベントや行事だったら、長いものだと数日という単位まで広がるのに対し、タイムラインは一瞬のリアルタイムの上書きの繰り返しになりがちだ。

 

たまたま気付けば大きな影響を受け、たまたま見過ごせば全く影響を受けないということが起きるようになる。

 

ところで、タイトルから少々外れた話題になるが、来月からプロ野球が無観客で開幕することが決まった。

 

これに関しては野球ファン以外にも注目するとおもしろい見どころがあるのだ。

 

観戦客がいないことが選手のプレーや審判の判定に間違いなく影響を及ぼすと言われてる。

 

試合は一般的には地元チームが有利だと言われるのは、観客の地元チームに偏った応援が選手のプレーや審判の判定に影響を与えているからと説明されていたが、これまで無観客で実施されることはほとんどなかったので仮説のままだったが、今回全チームが一斉にしばらく無観客で試合を行うことで、選手や審判の積極性や能動性がどのくらい影響を受けているかを感じ取ることができるかもしれない。

 

また判定を巡って口角泡を飛ばすようなやり取りは社会的に許されないとしたら即退場にでもするのだろうか?

 

 

積極性や能動性は、本人の意思だけで決定されてるわけではないのかもしれない。