『やって良いこと』『やらない方が良いこと』『やったらダメなこと』、これらは一般的には時と場合によりけりで判断されるが、昔はその境界は割とはっきりしていたような気がする。
理不尽な暴力を振るう人がいたら、力尽くで押さえ込むということは少し前だったら称賛される武勇伝となっただろうが、このような行為は最近では思慮分別に欠ける行為となった。
傍から見てると正義に見える行為は、法律的には理不尽な暴力と同等に扱われることが増えたのは、様々な揉め事が法廷の場に持ち込まれるようになったからで、何でもかんでも裁判に持ち込むことが増えたのは映画やドラマや小説などエンタメの影響も大きいだろうが、下記のように21世紀に入って急速に増えた弁護士のせいで案件の増加が許容されたことも大きいだろう。
グラフの出典は下記のサイト
さらに言うと、実際には訴訟が増えたというよりも、訴訟を避けるための示談が増えているのだ。
様々な現場で起きる揉め事は、表面的には正義と悪のぶつかり合いもあれば悪と悪のぶつかり合いや時には正義と正義がぶつかり合う場合もあるが、法律には正義も悪も関係ない、どちらかが一方的な加害者や被害者でない限りどちらの味方か分からないような対応をするのが法律の怖いところなのだ。
最近では一方的な被害者であっても全く救済されないような事例も珍しくなくなっていて、そんな際には上級国民というキーワードがちらついたりする。
私も弁護士じゃないから詳しくはわからないのですが 日本の法律では泥棒を殴ったり やり返したりしてもよいという法律はありません 私刑というか 過剰防衛で有罪になる可能性もありますので おじいさんの言い分は裁判所では通りません
— ネフェル (@nefer_ty) 2020年6月23日
アメリカでは自分を守るために銃で武装するという文化があり、さすがのアメリカでもそのことに賛否が分かれ始めているが、それに対して日本では相変わらず事なかれ主義が強いのは、事を構えると損をしたり不利を被ることが多いから。
しかし、だからと言って怒りのコントロールが上手なわけではないのは、処世術やライフハックでアンガーマネージメントがテーマになることからも分かる。
こうやって考えると、何やら正義と怒りは非常に近い関係だと思えてくる。
元々は正義に反するから怒りを感じていたはずだと思うが、いつの間にか突発的な怒りを感じた時に、自分には正義があると反射的に思うようになったのかもしれない。
今感じた怒りにはきっと正義があるはずだから、正当化されるだろうと無意識に思い込んでしまうのかもしれない。
実際に感じる怒りは、むしろただのムカつきと表現した方が似合いそうな気もする。
相手が悪いというよりも、自分の機嫌が悪かったり、抱えてるストレスのせいで、極端に許容度が低下しているだけなのかもしれない。
良いか悪いかは別にして、日本人にありがちな事なかれ主義は、不利を被らないためのアンガーマネージメントの一種とも言えそうだ。
そして、そうなったのは日本独自の法解釈や裁きのあり方に端を発してると気付くと、立派な生活の知恵と呼べそうだ。
日本では、よほど法律を味方にできる自信があるか、自分や家族を守るためにはそんなこと言ってられないという場合を除けば、正義を振りかざすことは避けた方が良いはずで、これは決してヘタレな反応ではない。
こうやって書いていて改めて思ったのは、古い映画で高倉健が演じていた役まわりのような生き方は日本の法律や裁きのあり方の結果生まれていたんだなということだった。