実際には古いお肉なのに『手間暇かけて熟成させました』と表現すると付加価値が付く。
古いお米や古い野菜には当てはまる気はしないが、焼き芋が好きな人には熟成させたさつまいもは付加価値が付いている。
野菜には当てはまらないと書いたが、冬の間雪の下で保存したような野菜には付加価値が付いていたなと思い出した、キャベツや白菜だっただろうか、にんじんもだったような気もする?
基本的に何事も新しいことに価値が宿る時代だ。
情報だと最初に報じられたのがいつかが重要になる。
古くても価値が宿るとすれば『熟成』のような物語性を伴う表現が当てはまる場合だ。
新しい情報にばかり反応してると増えてくるのが『あれってどうなったの?』だ。
断片的には知っていても体系付けた理解には程遠くなる。
知識は多いが果たして役に立つ知識にできているのか?
こういうことは現代人なら老若男女に当てはまることかもしれない。
新しいあるいは古い(熟成されてる)に一喜一憂するのは、多くの人が遅かれ早かれ誰でも入手するであろう情報ばかりに囲まれて生活してるからだ。
どこかの誰かの解説付きの情報を自分発の情報のように語り合いながら。
だからこそ心の中では自分しか知らないあるいは自分だけが知っている情報を求めるようになる。
自分だけが知っているとは、特殊な情報に限らない。
出回ってありふれている情報でも、その真の価値に多くの人は気付けてないと思えるような場合も含まれる、気付いているのは自分だけだと思えるような場合だ。
他人より一周先を行ってると思えれば自尊心がくすぐられ、一周遅れてると思えると劣等感を感じる、人間はそんなことばかり繰り返している。
だから歴史は繰り返す。
新しい古いという対比は、古いことを熟成と呼ぶような場合だと、新しいに対応するのは『即時』とでもなるのだろうか、株の売買の仕方などと共通してそうな気もする。
何気なく使ってる日常用語に『消費』がある。
お金を払って何かを買うことだと思っていたが、辞書的な意味を敢えて調べると、文字通り『使って無くすこと』だ。
無くしたのがお金だと思い込むとわたしが思っていたような消費になるが、買ったものの価値を無くすこととも取れるのだ。
熟成という概念の反対が消費に感じられる。
お金を使ってモノを買う人のことを消費者と呼ぶ、理屈上はすべての人が消費者になるのだが、中でも新しいモノにしか反応しない人の場合は蔑みのニュアンスが強いように思えてくる。
何事も熟成させたければ時間がかかるもの。
価値を見出したい、価値を生み出したい、そんな時には熟成という概念も忘れてはいけないはず、これは他人に主張してもあまり説得力を持たないだろうけど、自分の心の中ではきっととても重要になるはず。
取り組んでいることに今一つ価値が見出せない場合、欠けているのは熟成かもしれない。
熟成を人間活動で表現すると、愚直に続けるとでもなるのだろうか。