先日、朝井リョウの『イン・ザ・メガチャーチ』を読んで思った話の続き、と言っても作品に対する直接の感想ではない。
『イン・ザ・メガチャーチ』の中では推し活が重要なテーマになっていた。
ざっくりと、何のために推し活をするのかといえば、心の隙間を埋めるためだ、私はそう受け取った。
心に隙間が開いていて、そこに隙間風を感じるような時に人は誰でもその隙間を埋めたくなるはず。
『イン・ザ・メガチャーチ』の中では心の隙間の大元に『過去への後悔』が影響していた。
したことへの後悔ではなく、しなかったことへの後悔、恋愛で告白すれば良かったというような種類の後悔ではなく、大事なものを大事に扱わなかったという種類の後悔。
真に独立心が旺盛な人はきっと自分一人でその隙間を埋められるはず、いわゆる自分の機嫌を自分一人で取れるということだ。
それは性格でもあるだろうし習慣の結果かもしれない。
そんな人はきっと少数派だろう。
大多数は、心の隙間を埋めるためには充填材が必要になる。
そんな充填材的作用を求める人が行き着く先には充実と依存があるように感じる。
充実も依存も最初はほぼ全く同じ入り口から始まるだろうが、必ず他人が介在することになる。
自分一人で自分の機嫌を取れないのだから他人を必要とするのは必然だ。
何をするかは重要ではない、充実が予感できれば何だって構わないし、そのプロセスで知り合う人は仲間になる。
充実をもたらすのはやってることでありその仲間になる、この二つは一体化し区別できるものではなくなる、当初は。
充実だけに見えていたものが、充実と依存に分離し始めるのは当初が質的な変化をし始めることによってだろう。
そんな当初の持続期間がどのくらいかによっても違いは生じるだろう。
当初の期間が長いほど、依存は呪縛に似てくるはず。
質的な変化が起こることによって、埋めたはずの心の隙間に別の隙間が開き始る。
質的な変化はなぜ起こるかというと、自分の中に生じる何らかの疑問や違和感であったり仲間に感じられていた一体感のすれ違いをキッカケにしてだ。
人は一人では生きられないが、自分の機嫌は自分一人で取れることは現代人の処世術として重要だと改めて感じている。